Brass Monkey
2010/09/13
10日ほど前のことだけれど、どこか遠い出来事
エジンバラ大学の3週間の英語コースも終わった金曜日の夜
最後の夜ということで同じクラスの数人とバーに行った
韓国の新婚夫婦、北京から来た中国人
スペイン人の女性2人、そして日本人の僕
会計の仕事をしている韓国の男性はMBA取得のため
北京から来た女性は大学で英語の教授法を学ぶために
これから先もスコットランドに滞在するらしい
スペイン人の若い女性は今年バルセロナの大学を出て
ツアーガイドの仕事をしたいが、就職できるのか不安と話す
バレンシアの女性はセネガル人と結婚していて
旦那はムスリムだが自分はクリスチャン
ラマダン中でも夫の断食を気にせず
自分はいつもどおり食事をするという
僕は今仕事をしている国
パキスタンのことについて少し話す
好きなテレビドラマや、最近見た映画
そんな共通の話題があったり
自分の国のバーはどんな風だとか、気候のことだとか
国それぞれの話題があったり
エジンバラのバー、Brass Monkeyで過ごした時間
特別に盛り上がるでもなく
その時は他愛もない時間に思えたけれど
パキスタンに戻ってきて
なぜかあのバーの夜を思い出している
パキスタンに戻る
2010/09/11
日常生活の場という安心と
同じくそこにある緊張の中に戻る
到着した機内から見えた数多くの空港コンテナは
洪水の支援物資だったかもしれない
いつものように人で溢れている空港
中ではなく、ゲートの外で待つ多くの人
誰もが飛行機に乗って、海外へ行くことは出来ない
だから、空港はいつも、旅行者よりも
見送りと出迎えの人で溢れている
どんなにもがいても逃れられない不自由がこの国にはあって
お金で買える自由のために
いろいろな争いが起こる
いくら働いても克服できない貧困がこの国にはあって
お金で買える豊かさのために
いろいろな争いが起こる
それがお金では買えないことを
みんな知っていれば
争いは起こらないのだろうか
Dude(犬)はとてもうれしそうに
びゅんびゅんとしっぽを振って
飛びついて迎えてくれた
3本立て(1/3)
2010/09/10
帰りの機内で見た映画が思いのほかよかった
「GreenZone」
アラブを知るということは
世界を知ることのひとつのステップにしか過ぎないのだと思う
そして世界を知れば知るほど
自分とは何者なのかを知ることに戻り着く
ラストシーンを見てわかったのは
これは「アラビアのロレンス」だったのだということ
第1次世界大戦で、イギリス、フランス、ロシアが交わした密約
サイクスピコ協定が、現在のパレスチナ問題に繋がっているように
イラク戦争でのアメリカの失敗も未来に遺恨を残し続けるのだろうか
3本立て(2/3)
2010/09/10
「のだめカンタービレ最終楽章(後編)」
クラシック音楽を聴き始めたのは
高校2年の頃だっただろうか
あの時、クラシック音楽を聞くために使った時間があったから
この映画にこれだけ感動できるのだろう思った
親しかった友達に誘われて、
夏休みに吹奏楽部の臨時部員になったことがあった
友達はホルンで、僕のパートはシンバルだった
3分で終わるポップミュージックと比べると
1曲聞くのに長い時間がかかるし
何をどう感じればいいのか、よくわからないと思っていた
聴きやすい曲ばかりだよと、勧められて
貸してもらったカセットを家のラジカセで聴いた
卒業する前には、カセットテープを買い込んで
音楽の先生に音楽室にあるレコードから
好きな曲のリストを渡して録音してもらった
その頃好きでよく聴いていたのは
新世界交響曲、パッヘルベルのカノン
ラヴェルのボレロ、ベートーベンの第7交響曲
シューベルトの未完成交響曲、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ
今でもみんな好きな楽曲ばかり
クラシック音楽を聴く面白さを
気が付かせてくれた友人達に感謝
まったく人生、どのタイミングで、過去の経験が
リフレインしてくるかわからない
指揮棒を振っているのは誰なんだろう
3本立て(3/3)
2010/09/10
「El Secreto de sus Ojos (The Secret in their eyes)」
欲望が、ある時はストレートに、ある時は屈折した形で
現在と過去、フィクションとメタフィクションを行き来する
スペインの映画
恐れは人をたやすく間違った方向に動かす
そして恐れの連鎖を断ち切れるほど、人は皆、強くはない
恐れを克服して何かを全うするため
主人公は体験に基づいた小説というフィクションを使う
25年をかけた物語の行き着く先は
幸福も不幸も生き方の問題でしかないのだという
あたりまえのようだけれど重い真実
壁越え
2010/09/07
旅行前から決めていた
Billy Elliot をロンドンで観た
映画(邦題はリトル・ダンサー)のミュージカル版だ
スティーブンダルドリーの作品とあって
とても期待していたのだが
映画との違いを強く感じたまま劇場を出た
子役は誰もがあまりにも上手で
踊ることで、観客を湧かせていた
けれど映画にあった、技術はないけど懸命に踊る
パッションというのは見られなかった
もう一つは映画のラストシーンが
ミュージカルには無く
だから映画のラストシーンで僕が経験した
感動も、舞台には無かった
映画からあのラストシーンを取れば
映画もミュージカルも見事に調和するし
それでも映画として特に破綻はない
でも、それが作り手の届けたかったものだったとすれば
自分には作品がとても凡庸に見えてしまう
あのラストシーンに辿りつくまでに流れたであろう
語られない時間すら消えてしまう気がするのだ
そしてその穴埋めをするかのように
踊りも、音楽も、饒舌すぎる気がしたのだった
作品の中では明示的に語られていない何かを
暗黙のまま受け取ったと感じたとき
メッセージは形式を通じてしか受け取れないという
大きな壁を超える
だから感動にはいつも言葉にできる理由がない
自分はその壁超えの瞬間のカタルシスを求めて
劇場に足を運ぶのだということに気がついた
湖水地方の苔
2010/09/06
好きなだけ思うように歩けない
そんな旅行は初めての体験だった
ゆっくりとしか歩けないのがもどかしいのは
効率が一番大切だと、思い込んでいるマインド
走る列車の窓から見る羊の群れ
羊はみんな止まっているように見える
けれど歩きながら見ると、草を食んだり、のそのそ歩いたり
いろんな動きをしている羊たちが見えた
出来る限りの経験をしようと
知らず知らずの間に自ら効率を求めて動き
その結果いろいろなものを
見落としてしまっているのかもしれない
ゆっくり歩くことを受け入れれば
別の世界が見えてくる
どんなにゆっくり歩こうとも
世界とコンタクトすることさえできれば
そこには濃密な時間が流れるのだ