contact of the day

October 2014

August 2014

June 2014

(Edinburgh Festival Fringe) Pioneer - curious directive

2014/08/18

人類の火星探査ミッションと海底調査、そしてシベリアを旅する兄弟、3つの話が見事にまとまる脚本。
なぜ人はわざわざ住み慣れたHomeを離れてフロンティアを目指すのか、その答えははっきりとは提示されない。
事故、陰謀、疑惑、拝金、犠牲、そんな数多の困難を乗り越える動機は確かにあって、その尊さ、純粋さこそが、人を未知へといざなうのだというメッセージに、なぜか痛く心を打たれて、知らないうちに涙していた。

演劇で Sci-Fi というとどうしても小道具や衣装などリアリティーの部分での表現が難しいのだけれど、この作品には、誰もが共感できる人としてのリアリティーが表現されていたのだった。
限りない困難に翻弄されながら、誰も見たことのない世界を志向する。その出発点は、夜空を見上げ、未知なるものに触れた誰もが持つ眼差しなのだ。

(Edinburgh Festival Fringe) Pioneer - curious directive

2014/08/18

人類の火星探査ミッションと海底調査、そしてシベリアを旅する兄弟、3つの話が見事にまとまる脚本。
なぜ人はわざわざ住み慣れたHomeを離れてフロンティアを目指すのか、その答えははっきりとは提示されない。
事故、陰謀、疑惑、拝金、犠牲、そんな数多の困難を乗り越える動機は確かにあって、その尊さ、純粋さこそが、人を未知へといざなうのだというメッセージに、なぜか痛く心を打たれて、知らないうちに涙していた。

演劇で Sci-Fi というとどうしても小道具や衣装などリアリティーの部分での表現が難しいのだけれど、この作品には、誰もが共感できる人としてのリアリティーが表現されていたのだった。
限りない困難に翻弄されながら、誰も見たことのない世界を志向する。その出発点は、夜空を見上げ、未知なるものに触れた誰もが持つ眼差しなのだ。

(Edinburgh Festival Fringe) Swimming

2014/08/15

夏の嘘、夏の虚栄、夏のトラウマ、いわゆる「海の家」で働く3人の若い男女のストーリー。
日常とは非連続な時間と空間という点において、それが夏であり、海辺であるという設定は物語には格好であるだろう。
それぞれの登場人物に現れてくる問題は決して解決されず、その深さを提示するのみなのだけれど、問題解決の安易なカタルシスよりも、軽やかにすら見える表面と、抱え込む問題の深さのギャップにこそ、リアリティーがあって、それを一時間で見事にまとめ上げた脚本と、まったく危なげない役者たちの演技に、引き込まれた作品だった。
一時間という上演時間はフリンジでは標準的で、上演時間一時間、移動時間30分、待ち時間30分、上演時間1時間、、、、といった具合であちこち劇場のハシゴをしながら見ていると、同じ一時間という時間内にあの手この手の表現手法で伝えられるメッセージの豊かさに感嘆させられる。一方でがっかり感も一時間我慢すればいいので、なんとかなったりする。
もちろんこの芝居は前者だった。

(Edinburgh Fringe Festival) Sleeping Beauty

2014/08/15

一人語りの「眠れる森の美女」
舞台には、白いクロスのかかった長テーブルに置かれた、燭台、メニュー、などの小道具たち、ひとたび照明が変わって、それらの影がホリゾントに投影されると、その影は、森の中のお城となる。バケットを鼻にあてた演者の影が、魔女の横顔になったり、テーブルクロスを丸めた影が、生まれたばかりのプリンセスになったりと、小道具と影を使った演出と、演者のリアルな芝居とが混ざり合いながら進み、ひと時も飽きさせない。
そしてストーリーの舞台は現代に、永遠の眠りを引き起こす糸車の針は、ドラッグの注射針に置き換えられる。そんなこんなでおとぎ話が、現実感を持って迫ってくる。物語とは本来そんなものではなかったか、おとぎ話、物語の持つ影は、時間も空間も隔てた現実世界にこそ、投影され、再発見されるのを待っているのかもしれないと感じた。

(Edinburgh Festival Fringe) Silent Voice

2014/08/13

南アフリカ共和国の劇団
パーカッションの生のリズムと、4人の役者のステップをバックグラウンドに語られるストーリーは、ストリートギャングの逃亡劇。
City of Godとか、Reservoir Dogs とか、End of Watchなんかの映画を思い出す。
演出や演技は荒削りな感じだったけれど、何と言っても役者の存在感に圧倒される。南アフリカの芝居は以前にも見たが、社会と個人をとりまく問題意識のありかたの違いに、役者のリアルな身体性があいまって、圧倒的な迫力を感じる。それはある意味でノンフィクション的な見方でもあるのかもしれないが、「生きる」ということの意味の違いをまざまざと感じるのは舞台ならではかもしれない。

(Edinburgh Festival Fringe) Bears in Space

2014/08/13

アイルランドのグループ
熊のパペットによる大宇宙叙事詩。Papetry(人形劇)という分野は、子供向けから大人向け、コメディーからシェークスピアまで、幅広く定着している、特に昨今はロンドンでのWarHourseの大成功もあってか、Fringeでの演目は確実に増え、勢いのあるジャンルに思える。そういえば、「見たて」という表現手法は日本だって素晴らしいものがあるのに、、と、人形たちに魅入る新鮮な感動を観客から感じながら、少し残念にも思う。
人形遣いが役者のように舞台に立ったまま、パペットを操っているのだけれど、彼らは人形を操作しているのではなく、明らかに役をしかも非常に高いテンションで演じているということに感動する。その役が人形に命を吹き込んでいるのだ。パペットのおかしみと、汗を吹き出しながら熱く演じる人形遣いのギャップをみながら、やがて人が人形を操っているのか、人形に人が操られているのかわからなくなってくる。ストーリーも、ナレーター役のストーリーテラーが、劇中に登場してしまうという、何ともメタな構造で、舞台の虚構と現実の視点が見事に渾然と表現される、それでも楽しい熊たちの宇宙叙情詩なのだった。

(Edinburgh Festival Fringe) KLIP

2014/08/12

デンマークのパフォーマーによる前衛的な舞台。
スーツを着た二人の女性と男性、計4人による、ダンスと楽器(キーボード)、ボーカル、モノローグが混ざり合う。ぶら下がった豚の足、ニワトリの剥製など、脈絡のない小道具たち。
子供の伝言ジェスチャーゲームのような遊びから、構築された舞台は「注意深く選ばれた偶然によるコラージュ」と呼ばれる。
単純な動きの連続や、繰り返される言葉、唄よりも原初的なボーカルのアンサンブルから、不思議な世界が現れてくる。
偶然と遊びで始まる、子供が経験する世界を追体験するような一時間だった。けれどそれらは、見事に抑制されたパフォーマー達の動きによって支えられている。ダンスや歌が参照し喚起するのは外にある世界ではない、見ている観客それぞれの個人の経験なのだ。

(Edinburgh Festival Fringe) FunBags a Go-Go!

2014/08/10

フリンジには毎日見ても見きれないほど沢山の無料のショーがある。
たまたま見ようと思った演目がFreeShowだったのだけれど、座席について始まってみたら何かおかしい。
女性の一人芝居でちょっとシリアスな演目のはずが、3人の女性によるコメディーが始まったのだ。僕は同じ建物の隣の劇場に入っていたのだった。同時刻に始まって、こちらもFreeShowなのだが、もちろんチケットもないので、こんなこともある。
3人の女性たちは歌も演技も素晴らしく上手で、言葉についていけなくても十分に笑えた。しかもこんな質の高いショーが無料というのだから、懐が深い。次々繰り出されるスケッチ(短い寸劇)を見ながら、モンティーパイソンからリトルブリテンまでつながる、イギリスのコメディースケッチの伝統を感じたのだった。

Edinburgh Festival Fringe - (The Reel) Macbeth

2014/08/09

Reelというのはスコットランドの伝統的なダンス。手を上げて、ステップを踏んだり、スキップのような動きで並んで移動したりする、楽しげなダンス。
それがマクベスの悲劇とどうつながるのかを楽しみにしていたのだが、結局、場をつなぐだけのダンスに終わる残念な出来だった。
カレッジの学生たちによるシェークスピアをみながら、役者の身体性というのもについて考えさせられた。
学生であること、若者であることの身体性が、あからさまに見え隠れする限り、舞台の上の世界は現実に引きずられてしまうのだった。そこには悲劇性もなければ、フィクショナルな世界も構築されることはない

もし、The Reelという楽しげなダンスがマクベスの登場人物の狂気とつながるような表現であれば、面白い出来になったのではないかと感じ、余計に残念だった。

(Edinburgh Festival Fringe) - The HandleBards: Macbeth

2014/08/09

一日に2本目のマクベス。昨日のThe Comedy of Errors と同じパフォーマー。昨日の雨模様と打って変わって見事な晴天。受付の女性に、「また来たよ、今日はいい天気だね、演目は悲劇だけれど、」と話すと、「でも十分楽しいわよ」と答えた。
その通り、今までにないくらい笑えたマクベスだった。しかし悲劇は悲劇、決して作品を茶化すような笑いではなく、狂気さえも感じる見事な舞台。
マクベス役の演者だけが、他の役を演じることなく一人マクベスだけを演じ、他の三人が、全てのほかの登場人物を入れ替わり立ち替わり演じる。そのためマクベスという中心人物の演出にぶれがない。レディーマクベスも含めて全て男性が演じるというのも、実はシェークスピアの時代と同じスタイル。シェークスピアのテクストの普遍性と、演出の無限の可能性に感嘆した。こんな演目が見られるからフリンジはやめられない。

Edinburgh Festival Fringe - The HandleBards: The Comedy of Errors

2014/08/08

以前から見たかった、シェークスピアの喜劇。
野外、植物園の芝生の上、たった四人で演じる、2組の双子の取り違えのドタバタ喜劇。一人何役かわからなくなるほどの役を見事に楽しく演じ分ける、見事な役者の技量に、大いに笑った。
最初は傘を差して見ていたけれど、やがて雨は上がり、なんともまあ晴れ晴れしい気分の、双子の再開と、家族の和合の大円団。
4人の役者は自転車に全てを積んでヨーロッパをツアーで回っているという。
もう一度見たいので、早速翌日のMacbethのチケットを買った。
悲劇をどう演じるのか楽しみだ